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憧れられる存在になる 〜デザイナー西田武生〜

人間学を学ぶ月刊誌「致知」には、「二十代をどう生きるか」という連載企画があります。

各界のトップや経営者が毎月紹介されますが、2018年3月号特集テーマ「天 我が材を生ずる 必ず用あり」ではファッションデザイナー 西田武生氏です。

西田武生氏という人は、”タケオ ニシダ””レディ ニシダ”とブランドを手がけていて、各界著名人のデザインや秋篠宮紀子様の専属デザイナーも勤めたことでも知られる日本を代表するデザイナーです。

 

西田 武生氏の半生

 

西田 武生 TAKEO NISHIDA

1951年にデザインキャリアをスタート。以来、60年以上に渡り、大人の女性のためのエレガントでアップデイトなコーディネートを提案。1963年 全国の専門店、百貨店に「西田武生プレタポルテ」コーナーを設置。1985年 「タケオ・ニシダ」で東京コレクションに、また1985年、1989年にイギリス・エディンバラ城でロイヤル・コレクションに参加。

皇室とも親交があり、各界著名人のデザインを手がける。 女性には、美しくあって欲しい…そんな強い思いを、半世紀以上デザインの世界で発信し続け、女性の優雅さを引き出す服作りを続けている。

1951 伊勢丹主催「婦人子供服デザインコンクール」婦人服特選入賞
1953 服飾雑誌「婦人生活」デザインコンクール入賞
1954 服飾雑誌「流行」デザインコンクール入賞
1955 日本化学繊維協会主催「全国デザインコンクール」一等入賞
1957 講談社「日本の流行ライン発表」研究機関A.F.Gのメンバーとなり創作活動に参加 秋〈ハンター・ライン〉発表(第一回)
1958 春〈軸ライン〉、秋〈サイドライン〉発表
1959 春〈キューピットライン〉、秋〈クラシック・トーン〉発表
1960 春〈ファンキー・タッチ〉、秋〈ミュータント・タイプ〉発表
1963 全国専門店・百貨店に「西田武生プレタポルテ」コーナーを設置
1970 日本万博「味の素レストラン」のユニフォームをデザイン
1975 株式会社ブテック武生 設立 プレタクチュールのオリジナル作品によるブティック展開を百貨店と提携
1976 株式会社オリジナル武生 設立
1985 8月・エジンバラ城ロイヤルコレクションに参加
1986 「TAKEO de 365」 発表
1989 11月英国・エジンバラ城ロイヤルファッションショー参加 ロイヤルミュージアムにて永久保存
1995 阪神大震災チャリティーファッションショー参加
1996 神戸美術館寄贈 永久保存
2012 銀座 美術家会館に「ニュークチュール武生サロン」を設置

以上、TAKEO NISHIDAのホームページより

キャリアのスタートとなる伊勢丹のコンクールの受賞は、29歳の夏に富山から上京して半年後のことだたそうだ。それもデザインについては独学で身につけたという。

それまで戦中戦後の動乱の中、運の強さに助けられて人生の巡り合わせをつくづく感じると語っている。昭和19年に召集令状が届いて満州へ。所属部隊全体が沖縄作戦への参加の命令で移動する際、なかなか敵の魚雷によって出港できない中で持病の再発により釜山の病院へ入院。遂に出港日が決まると部隊長が挨拶に来た際に、「同僚とともに戦死したい」と泣いて言うも、「お前は行動をともにするよりも、本土に戻って国を守れ」と言われる。

数日後、西田氏は船に揺られて山口県下関市に渡り、下関病院に入院。一方、部隊の乗った船は沖縄にたどり着く前に魚雷の爆撃にあい誰一人助からなかった。

また、釜山で入院していた病院も数日後には爆撃にあい全壊。さらには、入院していた下関病院から軍の事情により栃木県の那須へ転院が決まると下関を出た翌日に下関病院は爆撃を受けて全壊。

このような巡り合わせの中で戦争から生き残り、いくつかの職を経験しながら上京に至ったそうです。

三度に渡る幸運によって生き残るって、考えられないでしょ。もともと”持っている”としか言いようがないですね。最後の下関から那須は、翌日ですからね。

 

思い込みが大事

 

その後、デザイナーとして大成していった西田氏が二十代を振り返って感じることが、人間”思い込みが大事”だということ。

二十代の時に常に心のうちにあったのは「なる人になる」言い換えれば、「憧れられる存在になりたい」という思いだったそうだ。憧れの存在として、男装の麗人と言われるマネーレ・ディートリッヒと『私のきもの』の伊東茂平氏を挙げている。

<マネーレ・ディートリッヒ>




伊東氏への憧れは、師事したいという強い思いに変わっていき、上京後に現実のものとなる。その後も、”二流ではなく、一流になりたい”という強い願望を抱くようになった。そうすると、自分が興味を持った分野の方が不思議と自然なかたちで周りに集まって来てくれたそうだ。このような出会いを大切にしてきて、これまで自分から友人と袂をわかつことは一度もなかったという。

これは完全に”引き寄せ”てるでしょ。この思い込みというのは、寝ても覚めても思っているから”潜在意識”に染み渡って引き寄せてるんですよ。

潜在意識の正体

もっと詳しく潜在意識

明日に向かって生きる

 

西田氏の人生信条は、「深刻がらず、流れに抵抗せず、決めたら実行する」

流れが止まると淀みができて濁りが出る。そうならないように自分の運命に身を委ねて、その流れに乗ること。よく「運が悪い」という人がいるが、西田氏は一度も「運が悪い」とは思ったことがないと言い切っています。何か悪いことがあれば、悪いのは自分だと言い聞かせてきたと。そして、決めたことは即実行。何よりも明日に向かって行く心の力が大切と思っている。

そして、御年96歳にしてもあの二十代の頃の”自分を信じる心の力”をいまも求めていると締めくくっている。

やはりこのような”持っている”方は、エフィカシー(自己効力感)が非常に高いでしょ。

そして流れに逆らうのは労力が必要だけど、流れに乗ると楽だということがわかっている。だから即実行すると効果がすぐに出てくるんですよね。

エフィカシーを上げるとは

フィカシーの事例〜大阪桐蔭高校野球部〜

「マチ工場のオンナ」に見るエフィカシー

まとめ

 

今回の西田武生氏は、記事を読んでいてビンビンと”潜在意識”の力が働いていて驚きました。

成功者と言われる方は、大なり小なり潜在意識によって思い込みが激しいものだが、西田氏は別格だろう。とくに戦時中の生き残りについては、「生きて〇〇をしたい!」という強い思いがあったのではと考えられる。

また、伊勢丹のコンクールの頃にも他の入選者は、文化服装学院や山野服飾学院などの専門学校生にも関わらず独学で受賞しているのがその象徴だ。

このように今の時代では、引き寄せと呼ばれるように強く潜在意識に思い込みを刷り込んで行き、RASにより新たな可能性を脳が勝手に探しているからどんどん周りの人にも恵まれていったんでしょうね。