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外国人から見た日本の特異点 ~鉄砲と刀剣文化~

「致知」

人間学を学ぶ雑誌「致知」2018年3月号 特集テーマ「天 我が材を生ずる必ず用あり」より,中村学園大学教授 占部賢志氏が担当する連載「日本の教育を取り戻す」にて、外国人から見た日本という視点で銃の歴史について世界の中での特異性について触れているのでご紹介しますね。

 

アメリカの文学研究者ノエル・ペリン

 

占部氏がご紹介するのは、アメリカの文学研修者ノエル・ペリンの「鉄砲を捨てた日本人」という書籍。

鉄砲となると、”種子島””織田信長”あたりが日本史で習ったなぁと記憶の片隅から出てきませんか??

でもその後、よくよく考えてみると鉄砲の話題は日本史では出てこないような気がします。ペリンの著書は、その世界的に見て特異な日本での鉄砲の歴史に興味を持ってまとめられているんです。


占部氏の概説では、武器の発展は人類の出現以来止まることがない。

石器時代の槍や刀剣、弓矢から、火薬が発明されて鉄砲という飛び道具になる。20世紀に至っては原爆・水爆などの核兵器が開発され、現在に至るまで世界のパワーバランスを決めている。このように常に右肩上がりで拡大してきたのが”武器”というものだ。

 

このような歴史の中で、唯一このような流れに当てはまらないのが、日本における鉄砲の歴史になるそうだ。

冒頭でも申し上げたとおり、種子島に鉄砲が伝来し一気に日本中に広まり16世紀の後半にはアジアで唯一量産に成功している。

しかし、戦国時代が収束し、江戸時代に入り太平の世となると鉄砲を捨てて、刀剣の時代に逆戻りしていった。

鉄砲を捨てた日本人―日本史に学ぶ軍縮 (中公文庫)

鉄砲の歴史

 

歴史

日本に「銃」としての鉄砲が伝来する以前、元寇時に「てつはう」と言う火薬を使った音のする武器が知られていたことから、銃が伝来してのち、これに「鉄砲」の字を当てたとも云う。通説では、「銃」に相当する鉄砲は天文12年(1543年)に、ポルトガル人をのせた中国の船舶が種子島に到着したことをもって伝来の最初とする。ただし、近年宇田川武久が日本の火縄銃と西欧の銃の構造の違いなどから、それ以前から東南アジアで改良された銃が日本に伝来していた可能性を指摘して以後、それ以前に日本に銃が存在していたのかどうかについての議論が活発に行われている(鉄砲伝来)。

鉄砲は和泉国紀伊国根来近江国国友など各地で生産され、島津氏三好氏足利将軍家など九州近畿の大名は早くからその充実に力を注いだ。東国では甲斐武田氏天文24年(1555年)の第二次川中島の戦いにおいて鉄砲300挺を携行し、組織的に利用している(『勝山記』)。

だが、その大量整備で知られたのは織田信長であった。長篠の戦いにおける織田氏の鉄砲隊の活躍については過大評価されてきた部分はあったものの、鉄砲の普及に大きな影響を与えた。また、鉄砲の生産・所持のためには多額の費用がかかることから蔵入地の増大などの戦国大名の統治構造にも影響を与えた。また、当初は海外で採掘されたものの輸入に依存していた硝石も、戦国時代末期にはわずかながら国内で生産されるようになった。

元和偃武後、江戸幕府は鉄砲を規制する方針を採った。ただし、その本格化は貞享4年(1687年)以後の徳川綱吉による鉄炮改強化以後のこととなる。それ以前は藩によっては農兵制を採用したりする藩(山鹿素行などの軍学者の中にもこれを支持する意見があった)もあり、統一した方針が確立されていたわけではなかった。江戸幕府においては新居関所における入鉄炮の規制や明暦3年(1657年)の関東盗賊取締令における鉄砲統制などがあったが、綱吉の政策以後在村の鉄砲の没収などの措置が採られ、生類憐れみの令による鳥獣の観点から規制は強化される方向にあった。もっとも、農村部においては領主が管理する鉄砲を特別な租税(鉄炮運上)と引換に一時的に借り出すという名目での預鉄炮拝領鉄炮)は容認した。これは鳥獣による農作物への被害による年貢等の減少を避けるためであった。

江戸時代の200年以上にわたって日本の鉄砲は火縄銃の水準に留まった。これは鎖国幕藩体制による鉄炮鍛冶の保護と統制による影響と言われているが、西洋の集団で弾幕射撃を行う用法とは異なり、狙撃型の用法が主で命中率を重視した日本においては、引き金を引いてから弾が発射されるまでにタイムラグのある燧石式銃は好まれなかったとする説、また、燧石式銃に必要な良質の火打ち石が国内で採れなかったことによるという説もある。だが、19世紀以後のヨーロッパにおける雷管施条式銃などの開発が、こうした弱点を徐々に解決しつつあり、幕末開国以後には急速に西洋式の銃に取って代わられた。明治維新以後は火縄銃は完全に使われなくなり、長年の保護と職人としての意識に支えられた鉄炮鍛冶の多くは新式銃への転換を拒み廃業して帰農していった。   (Wikipediaより)



このように歴史を俯瞰してみる江戸時代に入ってから幕府の政策により、銃に関する規制が進んでいったことがわかりますね。

この”銃の歴史”を見るだけでも、幕末の開国や明治維新の時期に大きくそれまでの日本固有の文化からの転換の波が押し寄せてきたことがわかる。

やはりこの明治維新というタイミングが、現在に至るまでの時代のスピード感が高まった起点と考えられそうだ。それこそこの10年ほどで急速に発展したテクノロジーのように、生活様式からして”激動”と呼べる変化があったと考えられますね。

 

刀剣文化

 

このような形で、鉄砲が縮小され刀剣文化に戻っていった流れがあるが、時は太平の世ですから”武器”ではなく、”武士の魂を象徴する神聖なもの”として扱われるようになった。

以前、「致知」で刀鍛冶の松田氏の対談記事をご紹介したがこれで納得ですね。

 

日本刀の歴史についてはコチラ

 

国内では神聖なものとして、海外からは美術品として認識されて刀剣は大切に守られてきたというのがよくわかります。

江戸時代以降はそのような世相にになったものの、戦国時代以前に作られた鎌倉時代に作られた日本刀に”価値”が見出されているのも納得です。戦国時代という戦乱の世を経過して守られたもの。それはやはり”価値”が違いますよね。

 

まとめ

 

今回、外国人の視点からみた日本の文化・歴史でしたが、大変興味深いですね。

鉄砲については、ほんとに日本史でならった”種子島””織田信長”といった程度のキーワードで、その後と言うと近代の戦争での大砲のようなイメージになっていました。しかし、その間は日本古来の伝統に回帰して刀剣文化に戻っているとは学校では教えてもらえないことですよね。(←私が勉強していなかっただけかもしれない・・・)

 

しかしながら、銃や刀というと我々の日常とはほぼ関係ないといってもいいものになっているので、このような機会に日本の文化について知ることが出来て良かったです。

海外志向のない私にとっては、よく海外の方のほうが日本人よりも日本の文化を知っていると言われます所以を実感した次第です。