人間学を学ぶ月刊誌「致知」2018年4月号特殊テーマ「本気 本腰 本物」の巻頭記事として、2人の時女子日本代表監督の対談記事が掲載されています。
バレーボール全日本女子監督の中田久美氏とサッカー日本女子日本代表監督の高倉麻子氏の両名は、ともに2020年に開催される東京オリンピックを目指してチーム強化に注力している。
バレーボール全日本女子は、前回の東京オリンピックの”東洋の魔女”以来、日本のお家芸と言われながら最近の成績は振るわない。また、サッカー女子日本代表は女子ワールドカップの優勝が記憶に新しいところだが世代交代を進めて行く中で最近の成績は低迷している。
そんななか女子スポーツでありながら、サッカー女子日本代表の女性監督は歴代初。バレーボール全日本女子の女性監督は歴代2人目で長期スパンでの就任は初めてというお二人の対談です。
中田久美氏の来歴
東京都練馬区出身。名前の由来は、誕生日(9月3日生まれ)から。一人っ子[2]。
母親の助言もあって[3]練馬区立練馬東中学校入学後からバレーボールを始め[4]、2年生の時山田重雄の英才教育バレーチーム『LAエンジェルス』に2期生として入団。その関係からバレーボールに専念するため高校は通信制のNHK学園高校に通い卒業。中学校時代は、同期に生徒会副会長を務めていた尾崎豊がいた。
バレーボール漬けの環境で才能を開花させた中田は、1980年に大谷佐知子と共に史上最年少の15歳(中学3年生)で全日本代表に選出され、同年の日中対抗にセンタープレーヤーとして出場。直後に山田から素質を買われ、セッターに転向する[5]。翌1981年に日立に進み、セッター転向わずか1年でスタメンを獲得。同年の日本リーグでは史上初の失セット0での全勝優勝に大きく貢献し、自身も新人賞を獲得した。なお、日本リーグ(現・プレミアリーグ)デビューは16歳3ヶ月で、2007年1月に15歳4ヶ月で岡山シーガルズのセッター堀口夏実が出場するまでは、最年少記録であった。
1983年からは日本代表でもスタメンセッターとなり、同年のアジア選手権では当時世界一の中国を破り、優勝を飾った。翌1984年のロス五輪でも銅メダルを獲得。
1986年9月、世界選手権で主将を務めた。11月、練習中に右膝前十字じん帯を断裂。再起不能ともいわれた大ケガだったが、リハビリを乗り越え10ヶ月後に試合に復帰。1988年2月、再び右膝を手術。しかし右膝は完治せず、試合の時は痛み止めの薬を手放せなくなる。同年ソウル五輪出場。
1992年、バルセロナ五輪に出場。日本女子バレー史上初となる3度目の五輪出場を果たし、日本選手団の旗手も務めた。
バルセロナ五輪を最後に同年11月に一度は現役を引退したが、1995年に現役復帰、1996年にはアシスタントコーチに就任。1997年に日立を退社して以降、バレーボール教室など後進の指導や全国各地での講演、バレーボール解説者のほか、スポーツキャスター、タレントとして活動している。
2005年、父の定年退職と共に、長野県内に新居を購入し、東京都内から両親とともに移住[2]。
2005年から翌年まで、日本バレーボール協会の強化委員を務めた。2008年、イタリアプロリーグセリエA・ヴィチェンツァのコーチに就任。日本人女子として初めて海外バレーボールチームの指導者となった。2009年、セリエA・ノヴァーラのアシスタントコーチに就任。
2011年9月、久光製薬スプリングスのコーチに就任し[6]、2012年7月1日付で監督に就任した[7][8]。 2012年12月24日、都城で行われた天皇杯・皇后杯全日本バレーボール選手権大会の決勝戦では、昨年優勝の東レを下して優勝。監督就任1年目にしての快挙となった。その後、Vプレミアリーグと黒鷲旗全日本男女選抜大会も制覇し、女子チームで初めてとなる3冠を達成した[9](日韓Vリーグトップマッチと2012年ぎふ国体を含めると5冠となる[10])。
2016年10月25日、日本バレーボール協会理事会にて満場一致で[11]、バレーボール女子日本代表の監督に選出された(女性監督では生沼スミエ[14]に次いで2人目)[15]。これに伴い久光製薬では総監督となった。2017年5月、久光製薬を退部[16]。(Wikipediaより)
高倉麻子氏の経歴
選手時代
福島市立岡山小学校時代、福島市の岡山スポーツ少年団に入団しサッカーを始める[1]。
福島市立福島第三中学校の頃、東京都リーグのFCジンナンに入部[2]。
1983年、15歳の時にサッカー日本女子代表に初選出され[3]、1984年、16歳の時にイタリア戦で代表デビューを果たした[4]。
中学卒業後、福島成蹊女子高(現福島成蹊高等学校)に入学したが女子サッカー部がなかったため、サッカーの練習は男子校である福島県立福島工業高等学校で練習し、週末は三菱養和クラブに通った[2]。和光大学に入学するまでは週末に東京へ通う生活を送る。
1985年、読売日本サッカークラブ・ベレーザ(現日テレ・ベレーザ)に入団[2]。1989年の第1回日本女子サッカーリーグ(現なでしこリーグ)でリーグ初得点を上げた。
1991年、中国で開催された第1回FIFA女子世界選手権(後の FIFA女子ワールドカップ)に出場した[5]。
1995年、第2回FIFA女子ワールドカップ スウェーデン大会に出場し、ベスト8まで勝ち進んだ[6]。
1999年6月に松下電器女子サッカー部バンビーナへ移籍。これは、読売ベレーザ所属時代に知り合い結婚した竹本一彦がガンバ大阪へ移ったことに伴う[2]。同シーズン終了後、アメリカのシリコンバレー・レッドデビルズ (Silicon Valley Red Devils) に入団するが、ケガのため半年で帰国。バンビーナから名称を変えたスペランツァF.C.高槻に復帰した。
2004年シーズン終了後に現役を引退[3][8]。公式戦出場226試合は2004年当時歴代1位の記録だった。
指導者時代
2011年6月21日、女性では3人目となるJFA 公認S級コーチライセンスを取得[9]。
2013年より2014 FIFA U-17女子ワールドカップを目指すU-16サッカー日本女子代表チーム監督に起用され[10]、2013年10月のAFC U-16女子選手権を制覇してFIFA U-17女子ワールドカップコスタリカ大会への出場権を獲得[11]。
2012年、2013年にアジアサッカー連盟が定める「アジア年間最優秀コーチ(女子の部)」を受賞[12]。
2014年3月、コスタリカで開催された2014 FIFA U-17女子ワールドカップに臨み、グループリーグ、決勝トーナメントを無敗で勝ち上がり、4月4日に行われた決勝戦でスペイン代表に2-0で勝利してU-17女子ワールドカップ初優勝を果たした[13]。
2014年9月より2016 FIFA U-20女子ワールドカップを目指すU-18サッカー女子日本代表監督に就任した[14]。
2014年11月、AFC女子年間最優秀監督に3年連続3度目で選出された[15]。
2015年8月、中国・南京で開催されたAFC U-19女子選手権2015で優勝を果たした[16]。
2015年11月、AFC女子年間最優秀監督に4年連続4度目で選出された[17]。
2016年4月27日、3月に退任した佐々木則夫の後任として、サッカー女子日本代表の監督に就任(U-20代表監督と兼任)[18]。日本では男女のA代表を通じて初の女性監督となった[19]。
代表監督就任後最初の指揮は同年6月にアメリカで行われたアメリカ女子代表との国際親善試合2連戦で[20]、6月2日にコロラド州コマースシティーのディックス・スポーティング・グッズ・パークで行われた第1戦では3-3の引き分け[21]、続く6月5日にオハイオ州クリーブランドのファーストエナジー・スタジアムで行われた第2戦は後半31分に雷雨により中断し、そのまま中止となった[22][23]。
2017年3月3日に行われたアルガルヴェ・カップ2017第2戦アイスランド女子代表戦を2-0で勝利し、監督就任後5戦目にして初勝利を手にした[24]。大会は最終的に6位で終えた[25]。(Wikipediaより)
気付く力
お2人は勝つチームに必要なものとして”気付く力”を挙げている。
中田氏の指導者としてのキャリアは、久光製薬スプリングスから始まったが当初のチーム成績は決勝に残ったりはするけど、”結果的には勝てないチーム”という状況だった。中田氏曰く、チャラチャラしているチームにしか見えなかった。
優勝するためには何が必要か。選手のマインドをリセットすることから始めたという。
その1つとして”片付け”を挙げている。合宿所の廊下には私物が散乱したり、辞めた選手のタンスが置かれていたりで汚れていたそうだ。それを当番を決めて体育館から合宿所までの掃除を一からやらせたという。
その心は、「汚い」とか「汚れている」という周りの状況の変化に気付けない選手が、自分のチームの問題に気付けるわけがない。”その差は日常生活にある”と断言している。
高倉氏もその考えには賛同し、なでしこジャパンがワールドカップで勝った時のことを語っている。
海外メディアから「日本人は、味方を輝かせるパスを出せる」と評されていたが、それは日本人ならではの「空気を読む」「阿吽の呼吸」というもので、今日は調子が良さそうだとか、味方の状況を見て、感じてパスの質を変えられるというようなことは、気付ける人でないとできないしその積み重なったものがなでしこのサッカーとなっていたと語っている。
伸びる選手の条件
伸びる選手の条件としてお2人とも同じようなことを言っている。
「勝負どころで自分で決めるんだ」
「自分がこのチームを勝たせるんだ」
「私の力が足りないからダメなんだ。だから、力をつけるためにももっとやらなきゃいけない」
これは以前、大阪桐蔭高校野球部監督の記事でもご紹介したが”エフィカシー(自己効力感)”が高いということだ。
自分はそういう人物であると思って物事に取り組んでいると壁を壁とも思わず乗り越えていける。
具体例を中田氏はイタリアでのプロリーグ(セリエA)の経験を含めて語っているが、世界のエース級の選手たちの集まるチームで自己管理(食べ物やコンディション作りまで)プロフェッショナルの集団。
その選手たちが試合で24対24の勝負どころになったとき、監督がいくらサインを出しても全く聞かない。全員が”最後は自分が決めてやるんだ”という思いがすごくて、日本人選手に足りない部分だと紹介している。
逆にもったいないと思う選手は、代表に選ばれる選手ということはそれなりの力や素質があるにも関わらず、誰もが当たる壁に対してチャレンジしなかったり、逃げたりする選手だという。
これはやはり”エフィカシー(自己効力感)”が低く、”コンフォートゾーン”から抜け出せないでいる状態なんでしょうね。
日本人の強み
今回の特集テーマ「本気 本腰 本物」に絡めて”日本人の強み”を挙げている。
「当たり前のことが当たり前にできる人が本物である」と中田氏は語る。それは、コンスタントに80%の力が出せる人。そして、それこそが日本人の強みであると。
実は外国人にとってそれは非常に難しいことで、彼らは120%の時もあれば30%の時もある。それに対して常にコンスタントに力を発揮できる可能性があるのが日本人の強みであるということだ。
だからこそ当たり前のことを当たり前にするためにも、片付けなど日常生活でいかに気付くか。当たり前のレベルをいかに高めて”エフィカシー(自己効力感)”を高めるかを指導するということだろう。
そのことによって”RAS”が働き、プレーにも好影響が出てくるというわけだ。
高倉氏も選手たちに、「世界一になると本気で思ってください」と言っているという。
心の片隅でちょっと無理かなとか誰か1人が思っているようでは、勝利の女神に見放されてしまう。みんなが「世界一をもう一回、絶対に取る」と本気になって思えるかどうか。そこから”気付く力”のような日本人の強みを発揮し世界と戦えるチームを作ると語っている。
まとめ
対談でも語られているが、女子代表の女性監督として前例のない中でオリンピックに向けて挑戦されている中で、お二人の強みはかつてトッププレイヤーであったことから選手たちが直面していることを経験していること。そして女性同士であることから大変さもわかるから、アドバイスができることは男性監督に比べるプラスだという。逆に、女性同士であるがゆえのある意味での厳しさも持って接しているとも語っている。
東京オリンピックももう目前に近付いてきた今、この2つの女子スポーツに注目していこう。
いずれも日本が世界を牽引するスポーツであり、このように前例のない女性監督が長期的スパンで強化に望んでいる。名選手が名監督にはならないとも言われるが、”再興”を求められる時期には彼女たちのようなカリスマの力が必要だとも言える。