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二宮尊徳の偉業をまとめた報徳記〜経世済民の精神〜

速読 芦屋 西宮 神戸スクール 「致知」

かつて多くの小学校の校庭に銅像が置かれていた(らしい)二宮尊徳(金次郎)について、皆様はどの程度ご存知だろうか。”苦学した人”というだけでは表現できない後世に多大な影響を与えた日本の偉人である。

小説家の武者小路実篤は、「二宮尊徳のことをまるで知らない人が日本人あったら、日本人の恥だと思う」と謳った。

また、”日本の資本主義の父”と称された渋沢栄一は、「私は、あくまでも尊徳先生の遺されたる四ケ条の美徳(至誠・勤労・分度・推譲)の励行を期せんことを希うのである」と述べている。

超訳 報徳記


二宮尊徳と桜町仕法 (報徳仕法の源流を探る)

現在のように二宮尊徳の名が知られるようになったのは、尊徳の高弟 富田がまとめた『報徳記』を明治天皇が一読して、これこそ日本が新たな船出を迎えるにあたって必要な書であると判断され、全国の知事に対して読むように指示を出す。

これによって全国の役人を通じて世間一般の方へも広がって行った。

※本記事は、人間学を学ぶ雑誌「致知」2018年1月号 特集テーマ「仕事と人生」の掲載記事を元にしています。

 

生い立ち

 

生涯

相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山(かやま))に、百姓二宮利右衛門[注釈 1]の長男として生まれる。母は曽我別所村・川久保太兵衛の娘・好(よし)。尊徳の弟には二宮三郎左衛門の養子・友吉(常五郎)と富治郎がいる。

尊徳は、まず堀之内村の中島弥三右衛門の娘・きの(キノ)を妻とするが、離縁。次いで20歳若いが貞淑温良な飯泉村の岡田峯右衛門の娘・なみ(波子)を娶った。後者は賢夫人と称される。子息は、きのとの間に長男の徳太郎がいたが夭折しており、なみとの間に、嫡男の尊行(弥太郎)、長女ふみ(富田高慶室)がいる。

幼少時代

当時の栢山村は小田原藩領であった。父利右衛門は、養父銀右衛門から13石の田畑と邸を受け継いでおり、当初は豊かだったが散財を重ねていた。そこに、金治郎が5歳の時の寛政3年(1791年)8月5日、南関東を襲った暴風で、付近を流れる酒匂川の坂口の堤が決壊し、金治郎の住む東栢山一帯が濁流に押し流されてしまった。その影響で父の田畑は砂礫と化し、家も流失した。開墾に従事して田畑は数年で復旧したが、借財を抱えて家計は貧する。

寛政9年(1797年)、父が眼病を患う。金治郎12歳の時、酒匂川堤防工事の夫役を父に代わって務めるが、年少ゆえ働きが足りないと憂い、自ら夜に草鞋を作って配布して献じた。この頃、寺に入れられていた弟友吉が耐え切れずに寺から戻った。寛政12年(1800年)、父の病気が悪化し、9月に没する。母よしが働くために前年生まれた富治郎を人の家に預けるが、乳張りがひどくて家に戻す。14歳の金治郎が朝は早起きして久野山に薪とり、夜は草鞋作りをして、一家4人の生計を立てた。

享和2年(1802年)、貧困の中で母が亡くなった。まだ幼い2人の弟は母の実家川久保家に預け、金治郎は祖父(伯父)[注釈 1]萬兵衛の家に身を寄せることとなった。しかしこの年にまた酒匂川が氾濫し、金治郎の土地は水害に襲われてすべて流出してしまった。

金治郎は本家・祖父の家で農業に励み、身を粉にして働いたが、ケチな萬兵衛は金治郎が夜に読書をするのを「灯油の無駄使い」として嫌い、しばしば口汚く罵られた[注釈 2]。そこで金治郎は策を講じ、堤防にアブラナを植え、それで菜種油を取って燈油とした。また、田植えの際に余って捨てられた苗を用水堀に植えて、米一俵の収穫を得た。

文化元年(1804年)、萬兵衛の家を離れ、同村の親族・岡部伊助方に寄宿。この年に余耕の五俵を得て、翌年は親戚で名主の二宮七左衛門方に寄宿。さらにここで余耕の20俵を得て、文化3年(1806年)に家に戻り、20歳で生家の再興に着手する。家を修復し、質入田地の一部を買い戻し、田畑を小作に出すなどして収入の増加を図った。しかし他方で、弟の富治郎はこの頃に亡くなった。

生家の再興に成功すると、金治郎は地主・農園経営を行いながら自身は小田原に出て、武家奉公人としても働いた。この頃までに、身長が6尺(約180センチ強)を超えていたという伝承もある。また体重は94kg[1]あったと言われている。小田原藩士の岩瀬佐兵衛、槙島総右衛門らに仕えた。

以上、wikipediaより。



このように大変辛い幼少期を過ごした尊徳だが学問によって父祖伝来の家を再興せんとの強い思いがあり、若くして学問に秀でていたことを象徴するエピソードがある。

 

近所の寺で読経を聞いていた尊徳は、村の和尚を捕まえて「和尚さん、観音教の功徳というものは素晴らしいものですね。その意味はこういうことですよね」と話すと、和尚は驚いて菩薩の再来と褒め称え、自分の代わりに僧になって衆生済度の道を歩んでくれと言わしめたそうだ。

 

衆生済度とは

仏道によって、生きているものすべてを迷いの中から救済し、悟りを得させること。▽仏教語。「衆生」は生きとし生けるもの。人間を含むすべての生きもの。「済度」は迷う衆生を悟りの境地に導くこと。(goo辞書より)

 

このことから幼少の頃から読み書きを疎かにせず、「論語」をはじめとした古典の読書量が相当であったと考えられる。

 

経済的センス

 

尊徳は経済的センスに優れ、荒れた農村の再建を多数行なっている。

その原点となるエピソードがある。そこから”積小為大”という言葉が生まれている。


尊徳が17歳の時、不要になったわずかな土地を開墾し、棄てられていた稲の苗を植え付けたところ、秋には1俵余りの実りを得ている。その実りを種として数年で多くの収穫を得ることに成功して、家の再興を果たす第一歩としている。

 

「およそ小を積んで大を為すのは自然の道(天道)である。こうした努力を続けていけば、やがては父祖の家を興し、祖先の霊を安ずることができるだろう」と1俵余りの実りを得た時に喜んでいる。

 

また、田畑の獲得でも才覚を発揮している。

当時、田畑を増やす方法は2つ。荒地を開拓するか、田畑を買うか。

開拓した新田には7年間年貢がかからないというメリットがあったため、尊徳は開拓に力を入れる。

そして、7年が過ぎると小作に出して小作料を得、それを元手として田畑を買い足すということを繰り返して行った。それによって、24歳で家の再興を果たし、30歳になる頃には村で有数の大地主になっていたそうだ。

 

天道と人道

 

”積小為大”という天道とともに、尊徳は人道という言葉も好んで使ったようだ。

人道とは、一所懸命に働き、多くの富をつくって社会に還元すること。すなわち、「世のため人のために尽くす」です。

人は何のために生きるのか。その答えは「世のため、人のために尽くす」ということだと尊徳は至ったのではないか。

尊徳の時代は、生まれながらにして身分が固定され職業の自由は認められていなかったが、その中にあって自分に与えられた仕事に精を出し世の中を良くしていく事の大切さを『報徳記』が物語っている。

 

まとめ

 

二宮尊徳はこのように経済と道徳という両輪を実現した人で、このような名言を残している。

 

道徳を忘れた経済は、罪悪である

経済を忘れた道徳は、寝言である

 

尊徳だからこそ言える言葉であろう。現代においては、道徳が教科化されるという検討が進められている。

経済発展している頃には道徳は忘れられ、経済に停滞感が出た時に道徳の話題が出る。

歴史という長いスパンで考えるとバランスが取れているのかもしれないが、いま現在進行形の私たちには”小を積み上げ大を為さん”と日々コツコツと積み上げていく事のみができる事だ。その時に、「世のため人のため」になっているのか?と自分自身に問いかけてみてはいかがだろうか。

 

※補足※

実は尊徳は、バツ1だ。

1人目の奥さんは、尊徳自身が他人の田畑の世話や再興のために出ている間、自家の田畑の世話など全て一人でやっていて、私は一体何をやっているんだろうという疑問を抱いて離縁を尊徳に言い渡した。

その後、2人目の奥さんをもらった時、尊徳は田畑の様子見などに出る時は家族全員を連れて外出す流ようになったそうだ。

 

1度の失敗から学んで”仕事と家庭の両輪”もうまく両立させることに成功したそうだ。