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興行としての大相撲

その他

横綱 日馬富士が引退を表明した。

巡業先でモンゴル人力士たちとの宴会の途中、貴乃岩関を暴行したことによる引責だ。

以前、朝青龍も飲酒の上、同様の暴力事件が元で引退している。いつの頃からか、外国人力士が番付上位を占めている。

今回の事件をキッカケに相撲と外国人力士について考えてみた。


 

初の外国人力士は?

 

調べてみると、ハワイ出身”高見山”が初の外国人力士ということになるようだ。

30代半ばの私がなんとなくわかるレベルなので、まだ歴史は浅いんだなと感じる。そう20世紀の間は、外国人力士といえば、ハワイ出身で”武蔵丸””曙”が多くの方が記憶にあるのではないだろうか。

その後、月日が経つとモンゴル出身力士が増え、”旭鷲山”はじめ前出の”朝青龍”となり現在に至る。

 

相撲とは

 

現代の日本においては、スポーツの興行としての大相撲が有名で、相撲は大相撲とほぼ同義に語られることがあるが、元々は日本固有の宗教である神道に基づいた神事であり、日本国内各地で「祭り」として奉納相撲が行われている。そのため、大相撲も他のプロスポーツと比べて礼儀作法などが重視されており、生活様式や風貌なども旧来の風俗が比較的維持されるなど、文化的な側面もある。

日本国内外で同じような形態の格闘技としては、沖縄本島沖縄角力(シマ)、モンゴルブフ中国シュアイジャオ朝鮮半島シルムトルコヤールギュレシセネガルラムなどがある。それぞれ独自の名前を持つが、日本国内で紹介される場合には何々相撲(沖縄相撲(琉球角力)、モンゴル相撲、トルコ相撲など)、といった名で呼ばれることが多い。

以上、wikipediaより

ということのようだ。実は神事である”相撲”と普段NHKで見ている”大相撲”とは区別があるようだ。

”大相撲”はあくまで興行とハッキリしていることがわかると外国人力士の台頭も理解がしやすい気がする。

そもそも興行であるから、観てもらえる要素が必要になってくる。現在、相撲の人気の低下が数年おきに話題に上るが、文明開化のころ大正・明治の時代にすでに兆しはあったそうだ。

その時は、明治天皇が天覧相撲を行うことで集客を維持しようとしたそうだ。

 

人気の維持

 

このようにすでに文明開化という新しい文化が日本に流入してきたときに、古くからある大相撲から人気が遠のくというのは必然だったであろう。それまで限られたパイの数から選ばれていた行楽が、一気にパイの数が増え、その後も増え続けているのだから。

 

その中で戦後復興を遂げ、高度成長を続ける日本経済の中で話題性を得るためハワイから”高見山”をスカウトしてきて入幕させるというのは、興行が目的であるということから理解ができる。

高見山自身も相当の覚悟で日本に来ているだろうし稽古の結果、国民から大変愛され”外国人力士”というイメージをすごく良いものにした。

その後はご存知の通り、若貴時代と言われた頃の曙や武蔵丸の活躍があり、非常に大相撲界としては活況に湧いたであろう。

 

次の世代としてモンゴル人力士が台頭してくる。アジア人ということでハワイ出身の力士よりも、肌の色も同じなので日本人と親和性も高いのか、抵抗なく受け入れられたような記憶を持っている。

それこそ2003年からモンゴル横綱時代と言われ、”横綱 稀勢の里”が誕生するまでずっと日本人横綱は不在だったんですよ。

これだけならよく聞くと思いますが、稀勢の里の前の”日本出身横綱”は”若乃花”なんですって。

一気に時代が遡って、その頃何してたっけ??って考えるぐらい昔ですよね。

 

ちなみに”日本出身横綱”とわざわざ書いたのは、若乃花と稀勢の里の間に武蔵丸が横綱に昇進しているが、武蔵丸は帰化していて日本国籍を取得していたのだ。なので”日本人横綱”と言えるのです。

 

まとめ

 

少し大相撲について調べて観て初めて知ることも多かったが、いずれにして外国人力士というスパイスが入って”大相撲”という興行の人気を得ることができて来たことがわかった。かつての様々な不祥事での人気低迷の時期に比べ回復して来て、今回の九州場所では連日満員御礼だったそうだ。(騒動の影響だけでなく)

 

今回の一連の報道を見て”暴力事件”というのは問題ではあるが、いつもの”横綱の品格”というものがいかなるものなのかと考えさせられる。

そもそも大相撲という興行には、神事の相撲の名残を持たせてある意味でブランド化されているので守られている部分もある。そして外国人力士の投入という”ある種の禁じ手”を使って、”大相撲”人気を押し上げたという事実もある。


その中で強さだけではなく、”横綱の品格”というものを外国人力士に求めすぎるのもいかがなものだろうか。それこそ”日本出身の横綱”を育て上げ”横綱の品格”を持ち合わせた横綱を誕生させるよう努めるべきないのだろうか。

 

”品格”というものがどのようなものか抽象的ではあるが、「三つ子の魂百まで」という言葉がある通り、土台はその頃から出来ている。

それに横綱になる過程で得られたものを肉付けし、カタチになったものが”横綱の品格”と言えるのではないか。

横綱になったからと言って、モンゴル人でなくなるわけではないので、我々は”期待のし過ぎ”と思うに部分があっても良いかもしれない。

強さ弱さは相対的なものなので、高見山が誕生せず日本人のみを貫いていたら、強さは現在に比べたら落ちるだろうが”横綱の品格”が守られた横綱が誕生していたであろう。

いつまでも”強さ””品格”という両輪を求め続けるのは、”興行としての大相撲”の傲慢ではないかと感じる。