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オリンピックを東京へ呼んだ男〜フレッド・和田勇〜

その他

今年に入って2020年開催の東京オリンピックに向けいよいよ現実味を帯びて来た感がある。

これから日本で開催される国際的なイベントを考えると、毎年のように目白押しだ。

2019年 ラグビーW杯

2020年 東京オリンピック・パラリンピック

2021年 ワールドマスターズゲームズ関西

2025年の万国博覧会も大阪に誘致できれば開催されます。

また、振り返ると2002年にはサッカーW杯を日韓共催として開催したことも記憶に新しいところですね。

 

近年の国際大会の誘致や開催となるとビジネス色が強くなりすぎて様々な問題点が指摘されています。誘致の問題もさることながら、開催スケジュール(時季)や試合のタイムテーブル(テレビ放映権の兼ね合い)など。

しかしながら、1964年に開催された東京オリンピックは別の意味があったんです。

それは日本の”戦後復興を世界にアピール”するということ。

今から70余年前、太平洋戦争で敗戦国となりGHQの占領下から独立し再出発した日本は、1956年に”もはや戦後ではない”とアナタも聞いたことがある言葉が経済白書に登場しました。

それからほどなくして1958年から東京オリンピック誘致に向けて準備委員会が発足され、誘致に多大な尽力をした日系アメリカ人のフレッド・和田勇氏をご紹介します。

 

フレッド・和田勇とは

 

フレッド・イサム・ワダ(Fred Isamu Wada、日本名:和田 勇〈わだ いさむ〉、1907年9月18日2001年2月12日)は、アメリカ合衆国実業家日系二世)。

実業家としてもさることながら、1964年東京オリンピック1984年ロサンゼルスオリンピック招致に関わるなど、スポーツ界に多大な功績を残している。和歌山県御坊市名誉市民、和歌山県スポーツ振興功労者。

略歴

ワシントン州ベリングハムで小さな食堂を経営していた夫妻の元に生まれるが、食堂の経営が苦しかったことから、4歳のとき口減らしのため和歌山県に住む母方の祖父母の元に移る。5年後に米国の実父の元に戻るが、既に実母は出産時のトラブルにより他界しており、実父は別の女性と再婚していた。和田はこの継母と折り合いが悪かった上に、実父と継母の間に子供が次々と生まれ生活が困窮したため、12歳のときに家を出てシアトル郊外の農園に住み込みで働く。

17歳のときにサンフランシスコの農作物チェーン店に移り、1年後には仕事ぶりが評価されて店長に抜擢された。さらにその2年後には独立してオークランド市内に野菜販売の屋台を出すようになる。当時アメリカの青果店では様々な種類の野菜をごちゃ混ぜに陳列するのが当たり前だったのに対し、和田の店は陳列に力を入れ野菜を種類別に見栄えのする形で店頭に並べたことからこの青果店は大繁盛し、オークランドの日系人社会で一躍注目される存在となった。1933年に和歌山県出身の夫人と結婚する。

1941年にはオークランドの日系人が経営する商店を束ね共同で商品の仕入れを行う組合を設立するなど、オークランドの日系人コミュニティの中心的存在となっていたが、同年12月に太平洋戦争が勃発すると状況は一変。日系人の太平洋沿岸3州での居住が禁止されてしまったことから(日系人の強制収容)、強制収容所行きを良しとしなかった和田は翌1942年3月にユタ州に移り大規模な農園を開設。この時期に生まれた次男にエドウィン(江戸が勝つ、すなわち日本が勝つの意味)を名付けている[1]。しかし農園の経営は非常に苦しく、1944年には当初和田と一緒に移住してきた日系人もほとんど散り散りになってしまったため、和田は同農園の経営をあきらめ、同年5月に同じユタ州の別の農地に移り家族で農業を営んだ。

戦後は長男・長女が共に喘息持ちとなってしまったという事情から、オークランドには戻らず湿気の少ないロサンゼルスに移住しスーパーマーケットを開く。このスーパーも非常に繁盛し、カリフォルニア州内で17店舗を構えるまでに成長させた。

1969年にはロサンゼルス市の港湾委員会委員に就任。当初は和田の持つスポーツ界での人脈を利用し(詳しくは後述)、和田にロサンゼルスへの夏季オリンピック招致に協力してもらうための便宜的な肩書として与えられたが、和田はロサンゼルス港と和歌山下津港清水港横浜港など日本の多くの港と貿易協定を結ぶことに尽力。同年11月には港湾委員会の委員長となった。1976年の夏季五輪招致に失敗したことや健康上の理由などから、1971年5月には同職を辞任するが、この際ロサンゼルスの市議会が満場一致で和田の留任を求める決議を行ったことからも、その仕事ぶりがうかがえる。

一方で1961年にはアメリカの日系人社会における高齢者を支える「日系社会福祉財団」の運営に関わるようになり、1970年代に入るとカリフォルニア州内に日系人向けの病院や老人ホームを次々と開設。1984年にはその功績が認められて吉川英治文化賞を受賞した。

2001年2月12日肺炎のためロサンゼルス市内の病院で死去。 (Wikipediaより)

このように日米の戦中からアメリカ国内で迫害を受けたりする中でも、誠実に物事にあたり対人折衝能力も高い今で言うリーダーシップを発揮した人物です。

それこそアメリカにおける日系人社会だけでなく、関わったアメリカ人や日本人にも多大な影響を与えリスペクトされている人物なんです。

 

特に注目してもらいたいこと

 

フレッド・和田勇氏について、東京オリンピック・ロサンゼルスオリンピックの誘致への尽力は確かに偉業ではあるが、私が特にお伝えしたい功績が2つあります。

 

全米水泳選手権の日本チーム受け入れ

 

1949年に開催される全米水泳選手権へ奇跡的に日本の選手団の出場が許可されたものの、当時は戦後占領下で外貨もなく資金面の厳しい遠征であり、満足な滞在先を望めないでいたそうだ。その時、ロサンゼルスで青果店を営んでいた和田氏が自宅の提供を申し出て、夫人の日本食の提供など万全の体制を整え日本選手団は世界記録を樹立することになり、”フジヤマのトビウオ”と称された。

このことは敗戦から間もない時期で、差別に合い肩身の狭い思いをしていた日系人の期待に添うだけでなく、日本本土の国民も元気付けられたに違いない。

 

日系人の福祉施設建設

 

こちらは晩年の功績だが、1970年頃フレッド和田氏は最後の事業として日系人向けの福祉施設を建設している。それは、移民としてアメリカに渡り戦中戦後の差別に耐え日系人社会を形作った一世や二世への恩返しとなる「敬老ナーシングホーム」「日系引退者ホーム」というものだ。

これは日米の架け橋となるとともに、日本の土を踏んだことのない三世や四世のアイデンティティーとして残したいという意志によって為されたんです。

 

まとめ

 

2019年のNHK大河ドラマが宮藤官九郎脚本で話題になっているが、テーマは東京オリンピック前年ということもあり、1912年ストックホルム大会・1936年ベルリン大会・1964年東京大会の3大会を中心に描かれるようです。

主演は、”オリンピックに初めて参加した男”金栗四三(しそう)に中村勘九郎。

”オリンピックを呼んだ男”田畑政治(まさじ)に阿部サダヲとなっている。

田畑政治は、日本水泳連盟会長として東京オリンピック招致に至る立役者の1人とされて、フレッド・和田勇氏とも非常に近しい間柄なので大河ドラマにに和田氏も登場するだろう。

 

またフレッド・和田勇氏を取り上げ、生い立ちから詳細に取材されたノンフィクション小説としてコチラがある。


東京にオリンピックを呼んだ男 (角川文庫) [ 高杉 良 ]

 

多くの企業小説や熱い男たちを題材に取り上げ世に送り出している高杉良氏の著書だ。

実際に顔を合わせて取材も行い、フレッド・和田氏の魅力に魅了されていることが端々に感じられる。

このような先人の思いがあって、現在に繋がっていると意識させられるものなのでぜひオリンピック前には読んで頂きたい。そして、分け合いや助け合いの精神に触れてもらえると未来は変わるに違いない。